作品概要

東京都杉並区の住宅街にある中瀬幼稚園。
この空間を守るかのように
武蔵野の面影を残す屋敷林がおおっています。

世の中が変化し、子どもたちを取り巻く社会環境が激変しても
子どもたちはこの空間で”いつもの遊び”を繰り返しています。

その姿に最近の子どもたちに失われつつある”何か”があります。

そして、それは現代を生きる私たちに
真に大切なものは何であるかを深く問いかけてくれます。

卒園までの1ヵ月、早春の風の中を軽やかに駆け回る
子どもたちの”いのちの耀き”を描いた
ドキュメンタリー映画です。

         

スタッフ

プロデューサー
川井田博幸
監督
筒井勝彦
撮影
秋葉清功
編集
筒井勝彦、筒井 厚
CG
岡村武男
音楽
近藤久美子ほか
音響演出
山田陽
音響スタジオ
studio Don Juan
語り
井口佳子
HP製作
オフィスハル、(同)プレーンプラン
企画・製作
中瀬幼稚園、グループ現代

コメント

ミュージシャン 大貫妙子さんからのコメント
遊んで遊んで遊びたおす
遊ぶことは生きる知恵
疲れて疲れてどこでも眠る
眠ることは身体の記憶装置
じーっと見る
さわってみる
匂いをかいでみる
口に入れてみる
群れの中で生きる力が育ち
自我はこの大地から旅を始める
気持ちを色に吐き出そう
子どもは親の所有物ではない
子どもはどこにも属さない。
映画評論家 佐藤忠男さんからのコメント
私が子どもの頃、というのは昭和もはじめの頃であるが、子どもたちは毎日、実によく遊んでいた。
私は地方都市の下町育ちだが、学校から帰ると夕方まで、幼稚園児から小学生まで、子どもという子どもはみんな、数人から数十人までのグループをつくって、路地から路地を駆けぬけ、お寺や神社の境内に群がり、思う存分に遊んでいたものである。私はあれが子どもの普通の姿だと思っていたが、いつの頃からか、そんな子どもたちの姿は町では見かけなくなった。

遊んでいるということは意義のあることは何もしていない、ということのようであるが、そんなことはない。 どんな遊びだって工夫し研究するから面白くなるので、それなりに頭を使っているし、面白くて夢中になっていれば、思わぬ発見もあったりして、つまらない勉強を嫌々ながらやるよりは、よほど脳も活性化するだろう。
それに年上の子どもは年下の幼い子の面倒をみて世話をしなければならないということは、親からも言われるし、言われなくても当然のこととしてグループの中で伝えられてゆくから、指導し、指導される社会関係の訓練が子どもたちの間で自発的にできるようになる。これが実は学校では容易にできない子どもたちの遊びのいちばんの効用だったのではないかと思う。
指導し指導される、教える教わるということは、大人と子ども、教師と生徒の間だけでなく、子ども同士の間で行なわれることが重要だし、それこそが社会性というものである。年上から年下へという一方通行的なものだけでなく、同年齢の子ども同士の間でそれが自然に行なわれるようにならないと社会性が成立したとは言えないが、それがうまくゆくためには遊びの要素が必要だ。
学習ではどうしても、子どもに点数をつけて優劣を比較することになり、劣るとされることが嫌になってノッてこない。 勝ち負けなどない楽しい遊びであることが重要なのである。

映画「風のなかで むしのいのち くさのいのち もののいのち」は、子どもたち楽しく遊ばせることに徹しているある幼稚園の日々のドキュメンタリーである。東京は杉並区の住宅街にある中瀬幼稚園というのがそれだが、子どもたちがいつももう、嬉々として遊んでいる。なんで遊んでいるかといえば整然と組織されて能力を競うゲームのようなものではない。

たとえばまず、幼稚園の改修工事。大工さんが材料や道具を運んで古い建物を壊したりする。その場にいて材料を運ぶことを手伝ったり、壊した床の下にもぐったりするくらい新鮮な楽しみも滅多にない。大工さんたちには少し邪魔かもしれないが、ちょっと協力をお願いすれば、適当に注意しながら子どもたちにもいろいろ珍しい発見やちょっとした作業の経験をさせてくれる。
それが子どもたちにとってどんなに楽しいかを、筒井勝彦監督と秋葉清功カメラマンは、まるで子どもたちと頭をつき合わせるようにして撮っている。

大工仕事だけではない。大人がふつう、仕事として、日常の生活の作業として、あるいは、各種の行事としてやっていることに子どもを仲間として参加させると、たいていのことが楽しい遊びになってしまうんじゃないかと思うくらい、子どもたちは嬉々としてノッてくる。そして虫や草花と生きもの同士として大事につきあうこと、敬意をはらうこと。
泥んこになって遊んで、たき火のぬくもりを満喫すること、などなど。その他、見ていて、アレッ、これってこんなに面白かったかな、そういえば自分も子どものころ、こんなことで夢中になったことがあったなあ、と浮き浮きした気分になってくるくらいである。
どんなことがそうかは見てのお楽しみだ。

この映画はそのユニークな教育方針をもっともらしく説明はしない。実はこれはみんな分かっていることだからだ。
分かっているのにみんなやらなくなった。こんな当り前のことを、なぜみんな、やらなくなったんだろう。見て愕然とする映画である。
大妻女子大学 学長 大場幸夫さんからのコメント

「子どもの叙事詩」

東京杉並にある中瀬幼稚園の生活ドキュメンタリー。

もう一度、この映画の映し出した子どもたちの園生活を、想い起こしてみよう。

映像は、園庭の中央に大きな木。その幹に括られた太いロープが一本。そこに数人の子どもが、さりげなく交代をしながら、そのロープにしがみついて大きく弧を描いて往還する場面。なにげない風景である。しかし、私は、子どもの時分に同じようなことをした体験を突如想い起こされ、その時点でその画面の中の子どもたちの遊びではなく、自分があたかもそのロープの当人であるかのように、タイムスリップしてあちら側の風景の中に在る自分を発見する。

あるいはまた、ガマの冬眠の場面で、そっと鉢植えを持ち上げ、カメラはその下に蹲る大きなガマの姿を映し出す。このときもそうだ。まるで自分が持ち上げ、自分が覗き込んだ風景に替わっている。なぜならあのときの鉢の下の土の匂いさえ伴ってその風景が成り立っていたからだ。

描き出したのは、特別のことでもなく、なにげない風景のように映る子どもたちの遊ぶ世界。その普段の園生活に起きるできごと、子どもたちのさりげない行動、あるいはまた、そのに暮らす子どもたち同士の折り合いの付け方や身に付けたルールなど。それは、まさに子どもの叙事詩である。

「日常性の意味深さ」

子どもたちの園生活は、その日々を織りなす身近な人々との出会いと関わり合い、そして草木、小動物、四季折々の変化に触れて共に在る。園庭に吹く風は、子どもたちの頬を撫で、草木を揺らし、園舎の窓ガラスを揺する。

国語辞典によると、「風」は、①空気の流れ、肌で感じるもの ②なりゆき、形勢 ③ならわし、風習、しきたり、流儀、などとある。この映画のタイトル「風のなかで」は、このような風概念に包み込まれて在る子どもたちの様子を包括し、「子どもさながら」の生活を意味している。

子どもの内発的な活動を喚起する保育環境が持ち合わせるものやことが、その場でじっと目に耳に凝らすと見えてくるし聞こえてくる。それは園の理念や教育の根拠などを理路整然と用意して、見る者を圧倒するというような意図も手立ても差し出していない。

この園の普段の風景をプロの目で括りだしていいという許可だけだったのではないか。優れた撮し手は、それを心得たように、子どもの目線で状況を描写することに徹している様子が見て取れる。絵コンテや筋書きがなかったという言い方は当てはまらないように思うが、妙にドラマチックに仕立てることがこの園生活の流れには馴染まなかったに違いない。残る選択があるとするなら、その日その日の生活のなかでカメラを回し続けることによって、この園の日常性を描き出すことができたのだろう。伝わってくるのは、日常性の意味深さである。

その結果、この映画では、画面の中に山場を構成するのではなく、見る者の心の内に山場を映し出すことをしてくれた。画面に現れる子どもたちの自然体の姿を通して、元子どもである我々自らの人生のドラマを重ね合わせてくれるという手法を感じさせられる。

「問われる大人のセンス」

なによりも私に強く印象づけられたことは、子どもたちの生きる現場として、幼少期から形作られる(磨かれる)のは、2つのセンスがあると言うこと。一つは、人として学ぶべき命の尊厳や共に生きることへの切磋琢磨が育むセンス・オブ・ユーモア。もう一つは、周辺世界を構成するものとが子どもたちの働きかけに応答(アフォード)し、子どもたちに呼び起こされるセンス・オブ・ワンダー。

大人たちが、そういう風景のどこかに、なにに、目を向け耳を傾け、心に留めるかによって、“情景”は異なった様相を呈するに相違いない。杓子定規に幼児教育を指導というところにおく大人の目からは、野放図に遊び惚ける子どもたちの姿としか映らないだろう。自分の幼い頃の遊びに熱中した当時をそこに重ね合わせて、しばしほのぼのとした時空の体現に身を委ねる一時を得る心地よさを味わう大人であることもできるだろう。あるいは喪われた子ども期を想起し、人生の黄金期は決して大人になって到達できることではなく、振り返るならこの乳幼児期こそ値千金なのだという感慨を覚えることもあるだろう。

我々にとって、自己同一性を実感するのは、こうした子ども世界を土足で汚さないようにそっと垣間見る機会を得ることによってである。その時、今在ることの意味深さを味わうこともできることに気づかされる。
そう思えてならない。今問われるのは、遊べなくなった子どもではなく、子どもの遊び心の大切さを見失った大人のセンスではなかろうか。